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アルピニスト: 野口健さん ~不条理な現実を見つめ、立ち向かう不屈の姿勢~

文 / 押条良太(押条事務所) Text / Ryota Osujo(Office Osujo) 写真 / 中村利和(BOIL) Toshikazu Nakamura(BOIL)

PROFILE

1973年アメリカ・ボストン生まれ。25歳のときに、当時の7大陸最高峰世界最年少登頂記録を樹立。その後、エベレストのゴミ問題を解決するために、世界各国の登山家たちと清掃活動に尽力。その一方で、2000年から「富士山が変われば日本が変わる」のスローガンのもと、富士山の清掃活動も精力的におこなっている。ほかにもシェルパの遺族をサポートするシェルパ基金や太平洋戦争の戦没者の遺骨収集活動、小・中・高・大学生に向けた野口健環境学校の運営など、活動は多岐にわたる。今年3月の東日本大震災では、いち早く「寝袋支援プロジェクト」を立ち上げ、被災地に多数の寝袋を送った。

野口健さんの肩書きは、「アルピニスト」である。アルピニストとは、アルプスを登る人、つまり登山家のことを指すが、ほかに「山登りに対して哲学をもった登山家」といった意味あいもある。「登山家という肩書きを使っていた時期もあったんですが、そのうち、環境問題への取り組みを始めたので、登山家より広い意味を持つアルピニストという肩書きを使い始めたんです」。

野口さんは七大陸の最高峰を最年少で登頂した人物である。16歳で登ったモンブランを皮切りに、キリマンジャロやコジアスコ、マッキンリー、エルブレス、エベレストといった名だたる山に登ってきた。

とはいえ、野口さんは幼少期から登山の英才教育を受けていたわけではない。それどころか、高校生になるまで、山という山に登ったこともなかった。「実は高校生の頃に学校から停学をくらいまして……。その時期に植村直己さんの『青春を山に賭けて』を読んで、『これだ!』と思ったんです」。

野口さんは外交官だった父とエジプト人の母親との間に生まれ、幼少期を海外で過ごした。その後12歳のとき、カイロの日本人学校から、英国の立教英国学院小学部にする。「かなりの進学校でしたが、普通に勉強すれば、高校までエスカレーター式に進学できる学校でした。しかし、僕の場合、あまりに成績がわるいので、仮進級で高校に進学しました。教師からはことあるごとに『お前は仮なんだぞ!』といわれるわけです」。

高校生になると本格的にグレ始め、学校を抜け出したり、ケンカをしたり、生活はかなり荒れていた。「ある日、学校で僕の態度が気に入らないと文句を言ってきた先輩を思い切り殴ったんです。そして一カ月の停学処分をくらって、日本に帰ってぶらぶらしていました。植村さんの本と出会ったのはその頃です。植村さんは大学の登山部でもバカにされ、就職も思うにまかせず、海外放浪の旅に出るんです。当時の僕も落ちこぼれで、植村さんと共通点がある気がしたんですね。学校や周囲を見返すには山しかない、と思いました」。

実際に山に登り始めたきっかけは、当時付き合っていた彼女の存在も大きいという。「彼女は優等生で、僕は落ちこぼれ。当然、教師たちは交際に大反対で、『お前と彼女との関係は、兵隊がお姫様に恋をするようなものだ。すぐ別れろ!』と言うんですよ。ショックでした。僕はなんとかして学校を見返してやりたかった。ただ、今までのように反抗しても、彼女の立場がわるくなるだけ。山で見返すしかないと思ったんです」。

野口さんは、日本の山岳会「ピッケルと友達になる会」に入り、登山の基礎訓練を始める。富士山の八合目での雪上訓練を経て、一週間後、八ヶ岳の天狗岳に登る。「丸く見える青い空と360度開がる視界。登山のよろこびを知った瞬間です」。

翌年、野口さんは同会によるモンブラン登頂に、半ば強引に参加することに。この頃、野口さんと交際を続けることで、だんだん学校での彼女の立場がわるくなってきていた。このままではやばいと焦った野口さんは、自分の存在をアピールするためにも、植村さんも登ったモンブランに登るしかないと決意したのだ。結局、危険と判断したら即下山させるという条件付きで同行を許してもらった。

標高4808メートルのモンブランは、登山歴1年に満たない高校生にとっては、相当難易度の高い山だが、周囲にも支えられ、無事に登頂することができた。「どこまでも続く氷河。グランドジョナスの雄大な姿。それは今まで見たことのない壮大な風景でした」。

「不思議なことに、モンブランから戻った後くらいから、劣等感がなくなっているのに気付いたんです。山に登頂した時の達成感は、勉強してテストで100点満点を取ったよろこびより絶対に大きいと勝手に思っていました」。ただ、その頃、野口さんは、彼女の大学受験のことを考え、結局、自分から別れを告げてしまう。「後から周囲の圧力に屈したような気になって、猛烈に後悔しました。もう僕には山しかないと思いました」。

モンブラン登頂からわずか4カ月後の12月、アフリカ大陸の最高峰、キリマンジャロを挑戦し、初めての高山病に苦しみながら、山頂を極める(1990年)。もうろうとした意識の中、山頂で7大陸最高峰の登頂を決意したという。大学はかねてから興味のあった国際関係学部がある亜細亜大学へ進学する。一芸に秀でていることを基準に合否を判定する一芸一能入試を受験した野口さんは、「僕は在学中に7大陸最高峰を登頂してみせます」と目標を熱弁し、見事に合格する。

その後、1992年にはオーストラリア大陸のコジアスコに登頂し、さらに同年、南米大陸のアコンカグアに登頂する。植村直己が眠る北米大陸のマッキンリーでは、登山開始から3日目にクレバスに落下し、九死に一生を得ている。「時計もなくして、本当に死ぬかと思いました。夜、テントの中で、かつてお前はいつか死ぬといった人間の顔が次々と浮かんできました。山頂に立った時は、どうだ、僕は死ななかったぞと叫びたい気持ちでした」。‘93年のマッキンリー登頂によって、十代で五大陸の最高峰を制覇したことになる。

その後、1994年にはヴィンソン・マッシーフ(南極大陸)に登頂。1996年にはエルブルース(ヨーロッパ大陸・ロシア)とネパールと中国にまたがるチョオユーに登頂している。順調に目標をクリアしていったが、世界最高峰・エベレストには、今までにない困難が待ち構えていた。

1996年に臨んだ最初の挑戦では、体調不良のため、山頂まで1000メートルを残した時点で下山することに。「最初の挑戦は惨敗でした。本当に落ち込みましたね。その頃、就職活動をしていて、あるテレビ局の試験で、最終面接まで進んだんです。僕の武器はもちろん登山ですが、頭の中にエベレストを登っていないことが引っかかっていたんでしょう。自信を持って話すことができず、結局、落ちました。ただ、もっといやだったのは、高校時代の思い出がよみがえってきたことです。エベレストに登らないと、僕は一生自分に自信を持てずに生きていかなくてはならないと思いました」。

二回目の挑戦は1998年。このときは万全の体調で臨んだが、天候の急変によって撤退。ただ、残念ではあったが、『次は登れる』という登頂へのたしかな感触をつかみとった。そして翌年の5月に、ラストチャンスの覚悟で臨んだ三度目の挑戦でついに登頂を果たす。こうして野口さんは、当時の七大陸最高峰の世界最年少登頂記録を更新したのだ。

「このときに確信したことは、他人の指図や行動なんて何の関係ないということ。エベレストの山頂を目指すことは、自分の命を賭けることと同じですから、すべてが自分の責任です。自分自身が納得したら、アタックをかける。それだけ。自分が納得したタイミングでアタックをかけることができれば、どんな結果になっても、その結果を受け入れることができる。後に苦い思いを残すことはありません」。

アルピニスト: 野口健さん
野口さんは日本固有種の動植物を守ることにも深い関心もっている。現在、取り組んでいるのが、尖閣諸島魚釣島に生息し、存続が危ぶまれているセンカクモグラやセンカクツツジなどの固有種の保護活動。2011年には「センカクモグラを守る会」を立ち上げ、生物多様性の価値と保全の緊急性を訴える活動をしている。

登山家としての大きな目標を達成した野口さんは、休む間もなく、アルピニストとしての活動を開始する。そのひとつが、「清掃登山」である。「僕は3年連続して世界最高峰にネパール側とチベット側から登りましたが、どちらのルートにも、各国の登山隊が残した残留物が散乱していました」。なかでも日本隊が残したゴミがもっとも多かったという。

「かつて外国の登山家から、『日本はエベレストを富士山のようにするつもりか!』、『日本の経済は一流だが、文化、マナーは三流だ!』ときめつけられたことがあります。正直いうと、僕自身もエベレストに登頂後、あまりに疲れてしまい、酸素ボンベを置いてきたことが一度だけありました。しかし、エベレストが僕にもたらしてくれたものは計りしれません。今度は僕が山に恩返しをしたいと思ったんです」。エベレストのゴミを拾う清掃登山をきっかけに、環境問題への関心が強くなり、マナスルや富士山などの清掃登山をおこなっている。

遺骨収集活動も野口さんの重要なライフワークだ。一見、登山とは関連がなさそうな活動に思えるが、活動を決意したのはヒマラヤの上だった。野口さんは2005年にヒマラヤのシシャパンマへ登った時、上部キャンプで、かつて体験したほどのない猛吹雪に遭遇した。テントの中で死を覚悟した野口さんは、メッセージを書き始める。つまり、遺書である。「ヒマラヤでも、毎年、たくさんの人が命を落としている。だが、高度6500m以上の領域では、遺体はまず回収してもらえる見込みはない。氷漬けになったまま、二度と家族と対面できないことを考えると、泣きわめきたい衝動にかられました。とにかく生きて日本に帰りたいと思ったんです」。

翌日、運よく天候は落ち着いたが、胸に去来するある思いがあった。「先の大戦で、はがき一枚で戦地に送られ、死を迎え入れなければならなかった人たちは、僕以上に『日本に帰りたい』と渇望し、のたうち回るような思いだったはずだ」。野口さんは無事に帰ったら、必ず遺骨収集をやろうと胸に誓ったという。

2008年からNPO法人の空援隊に参加し、おもにフィリピンにおける旧日本軍戦没者の遺骨の収集活動をおこなった。現在は空援隊を離れ、沖縄を中心に遺骨の収集活動をおこなっている。

がっしりとした厚みのある野口さんの手
がっしりとした厚みのある野口さんの手。幾度となく死線をくぐり抜けてきた手には、独特の雰囲気が漂っていた。

2003年にはヒマラヤ登山隊の現地ガイドを務めるシェルパの遺族をサポートする「シェルパ基金」を設立。「登山中、遭難するシェルパは少なくないんですが、保険や保障もまったくないんです。この募金は、シェルパの遺児に対して、育英資金を給付して、学校に通うことができるようにすることを目的としています」。

この10年間、野口さんの活動は広がる一方である。理由を聞くと、「見てしまったから、知ってしまったから、としか答えようがありません。外交官だった父が、ことあるごとに僕に言った言葉があります。『物事には必ずA面とB面がある。B面は見ようとしなければ、目に入らない。だが、世の中、往々にしてB面にこそ深遠なテーマがあるんだ。お前もB面をよく見ろよ』。現場に入って、B面を見つめて、問題意識をもつ。これが僕の生き方です」。

野口さんは著書の中で、「登山は不条理との闘いだ」と書いている。ルールを守っていても、命を落とすことがある。仲間が遭難しても、置いて帰らなければならないことがある。そして現在、野口さんが取り組むさまざまな問題にも、現代社会が生み出した不条理が潜んでいる。

不条理な現実をまっすぐに見つめ、不屈の闘志で立ち向かい続ける。そんな野口さんの一貫した生きざまが人々の共感を集め、そして勇気を与えるのだ。

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